はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」
インターネットによる情報革命と時間革命
インターネットは、私たちに「情報革命」と「時間革命」をもたらした。
例えば何か「調べたいこと」があるとする。
周りにはその知識を有する者がいない。そんなとき、以前はどうしていただろうか?
インターネットがない時代は、図書館などに通い詰め、片っ端から関連のありそうな大量の書籍を広げ、調べたいものの記述を探し出すという経験をしたことがある方もいるのではないだろうか?
それはそれは膨大な時間をかけていたはずだ。目的のものが見つからず、ついつい別の内容に脱線してしまう、ということもあったに違いない。
近所の図書館には目的のものがなく、もっと大型の図書館や本屋に行って探したという方もいると思う。また情報の案内人とでもいうべき、その分野に明るい人は重宝されたはずだ。
私の場合、小学校の時に田舎の祖父母の家に行くとブリタニカ百科事典*1という少し古い感じで1冊1冊が分厚い大事典が本棚一杯に詰まっていて、開いて中身を見て「すごーい!」と思っていたことを思い出す。文字を追い、挿絵や図で本物を想像して楽しんでいた。それでも本物の色合いや、どう動くかなどはわからなかった。
「調べる」ということはつい最近まで大変な作業だったのだ。
いまはどうだろう。
大抵のことはスマホでググれば*2情報がでてくる。なかには誤った記載があることもあるが、膨大な検索結果をいくつかまとめると、おおよそどんなことなのかがイメージできるはずだ。
さらに動画で映像が投稿されていることもある。動物なんかだと本物の色や鳴き声、大きさなども分かるようになった。
人に頼むことなく、手のひらの小型端末(スマホ)で様々な情報を得ることができる。
インターネットの初期のテキスト文字中心のやりとりではなく、情報通信網が一気に高度化したことでカラー化や映像化が進み、それ以前からのパラダイム転換*3が発生している。
いま起きていることは「情報革命」であり、「時間革命」であると思う。
インターネットによる記録、発信の変化
記録と発信の仕方も変わった。
パピルスや羊皮紙の時代を経て、中国で書き込みと保存が容易な「紙」が発明されて以降、紙のおかげで手軽に記録し、持ち運び、簡単に保存ができるようになり、人類の知識の累積が飛躍的に高まったと考えられている*4。印刷技術の獲得と合わせて、広く多くの人に同じ情報を届けることができるようになった。
時代が違うので同じ次元で比較することはナンセンスではあるものの、現在のインターネットによる情報拡散と同じようなインパクト、情報革命があったと言えるのではないだろうか。
現在の情報の氾濫はインターネット時代より前の比ではない。
紙の場合でも誰でも記すことができ、誰かに渡して拡散するということが可能だが、インターネットに書き込み、そこから拡散される情報展開のスピードはもう、それ以前の何千倍とか、何万倍のスピード、伝達力があるのではないか。
そして誰でもインターネットにアクセスして、情報を記録することができる。このブログもそうだ。
SNSならもっと早く、誰でも、すぐに世界中に情報を流すことができる。
言語の違いやインターネット環境の差による格差はあるものの、方法としてはかつてないスピードで情報を広めることができるようになっている。
よく指摘されるように、ここには問題がある。
フェイクニュースである。なんの検閲もなく、正しいとも正しくないともわかりづらい情報が「正しいもの」として流通してしまうことがある。なかには心理的な穴をついて、わざと誤った情報を拡散しようということをしている者もいるとの指摘*5がある。
いずれ情報の正しさを維持するための管理コストが問題になってくることがあるかもしれない。
インターネットの影響力とその重要性
インターネットの影響力は計り知れない。
次元は異なるが、「アラブの春*6」はSNS上での民衆の声や活動がきっかけで政治のバランスなどが雪崩現象のように動いたため*7起きたという人もいる。情報は争いを収める手段ともなりうるが、一方で争いを引き起こす手段にもなりうる。
そこで、中国のように社会的な混乱が起きないようインターネット検閲*8が行われている例もある。
こうしてみると、インターネットで世界中と繋がれるというのは世界の良心に頼って運営されている面があるといえないだろうか。微妙なバランスの上に成り立っているとも思える。
インターネットはもともと汎用性のあるネットワークとしてできたものだ*9。
しかし各国の保護政策が硬直化すると、もしかするとネット遮断ということが将来起き得ないとも限らない。そうなればどうなるだろう。
情報のストックを行なっていなかった国は情報という兵糧がなくなってしまうかもしれない。個人情報の管理の厳格化はもちろん必要だが、データ保存を国外ではなく自国内に置くような流れがあるのも他国によるデータへの介入以外にこういった事情もあるのかも、と思わず考えてしまう。
私とインターネット
もっとも私個人単位で見ると、私とインターネットの関係は通信データの大容量化が進んでから、大きく変わった。
「iモード」*10という時代があったが、今から考えればテキストメール中心の可愛いものだ。
「情報革命」や「時間革命」で今までより労働時間が減るかと思いきやそんなことはない。逆に増えている。
処理すべき課題が山のように降ってくる。
それをさらに、以前から見れば恐ろしいスピードで処理している。いずれAI(人工知能)が取って代わってやってくれるようになるのかもしれないが、今は移行期なのだろうか?
従ってつい数年前にしていたことがすぐに陳腐化するということが起きる。Windowsの使い方や操作方法もバージョンが変わるたびにやり直しになる。
ただ、テキストデータの重要性は変わらない。
物事の本質は変わっていないはずなのに。なんなんだ、この忙しさは?
データを修飾することで余計な仕事を増やし、それが必要な業務なんだ、といって時代に流されていないだろうか。
ちょっとボヤきたくなる。
ただ、専門的知識、旅行や食べ物や各地の情報、各種法令や白書など、これまで知らなかったことを発見するということは増えた。
データアクセスの容易さ、検索性の向上により確実に便利になっているという実感はある。
これからのインターネットとブレイクスルー
これからもインフラ基盤の拡充とともに、どんどんインターネット社会は進展するだろう。
でも、記録する、伝える、保管する、という本質は紙中心の時代から変わっていないのではないだろうか。
ただ、スピード感は確実に早くなっている。その分情報が十分吟味されずに拡散されてしまう可能性があることは先に触れた通りである。
また、バーチャルでなんでも体験できるからといっても今は本物とは同じ体験にはならない。
例えば、泳ぎを習得する時にいくら映像で学習しても、実際に自分の体を動かして泳いでみなければ泳げない。
ここをいつかインターネットの力でブレイクスルー*11してしまう日が来るのだろうか?
楽しみでもあり、少し怖くもある。
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最後までお読みいただき
ありがとうございました🤗✨